30年ほど前、生命保険会社が主婦に得意料理を聞いたところ、20−30代は酢豚、40代はカレー、50代は野菜炒めだった。料理経験が最も長いはずの50代が「野菜炒め」だったのは、結婚前後、戦争直後の物資難と重なったためだ。40代のカレーも30代の酢豚も、当時の家庭料理の流行が反映しているにすぎないが、その効果は持続する。
世代効果とは、正確には「世代無視効果」で、若い頃に原因のある現象について、年々歳々、次の世代が累積的に生まれてくるために、全体としては原因との相関が見失われてしまうことだ。原因と結果が時間的に離れすぎて、別の要因がノイズとして入り込みすぎる。
私のハーバード時代の恩師である(ここまですべて嘘)ロバート・パットナムは、アメリカの共同体が衰退した原因を探ったベストセラー「孤独なボーリング(Bowling Alone=一人でボーリング)」で、教会参加、PTA活動、地域ボランティア、ボーリング大会やブリッジクラブ、労働組合、友人宅訪問、新聞への投稿回数などを指標に使い、共同体が1960年ころから連続的に衰退していく様子を説明した。地域のボーリングクラブに参加する人が次第に少なくなり(高齢化して引退するから)、ついには一人でボーリングをするようになったのだ。
新聞の購読率もこれに含まれている。
アメリカの新聞の売り上げは2000年ごろまで増え続けた。その後、急激に縮小したため、原因はインターネットということになっている。
しかし、新聞の衰退はすでに1960年ごろから始まっていた。世帯あたりの購読部数は早くも1960年代に減少を始めた。しかし、ベビーブームなどの人口増加がそれを上回り、総発行部数は増加を続けた。その影響も1980年代には力つきる(人口増加の原因が非英語話者に変わったから)。この頃、最初の新聞再編(JOAなどによる競合紙の準合併)が行われる。
不幸なことに、クリントン政権以降、景気が回復すると、広告収入が伸びたため、一時的に息を吹き返すどころか、さらに肥大化してしまう。(株式公開などで経営がリスク志向になったため)
原因が遠い昔にあることは、世代別購読率に現れている。Figure-6は「昨日新聞を読んだか」を聞いた調査で、1930年代生まれは60%前後なのに、1970年代生まれは20%そこそこにすぎない。
新聞の衰退は、60%の世代が死に、20%の世代に代わっているためだ。そして、丙午(1966年)生まれの人が少ないことを変えられないのと同じように、いまさら、何もできない。(学校でのメディア教育NIEに効果があったとしても、現れるのは30年後だ)
グラフを見ると、1940−1960年代生まれになると約20%低下し、1960年-1980年代になると更に20%低下している。
パットナムの本で最もシビれるのはここからで、統計的にテレビの登場が原因の50%を説明するという。統計で50%説明するというのは完璧に主因といっていい水準だ。
なぜ、そんなことが分かるのか。
広いアメリカには、衛星放送が始まるまでテレビが来なかった地域があるからだ。その地域は、収入や産業構造の影響を取り除いても、共同体活動が衰退していないのだ。そして、衛星放送が入ると見事に衰退した。
テレビが登場したとき、「電気新聞」として新聞界は恐怖に震えた。新聞業界はその後も栄えたので、それは笑い話になっていた。現実に起きたことは、テレビが(とりわけ個室に)侵入してきた結果、地元の共同体に対する関心が著しく衰退した「引きこもり」が早くも起こり、一般事象に関する一般的関心、新聞が前提としている読者が激減してしまったのだ。
最近のネット普及でメディア移民が起きているのは確かだ。しかし、これは新しいメディアが普及したというだけの話だ。新聞が無料で大量のニュースを流しているから、それで十分だと思うのも当然で、新聞の自業自得だ。(無料で公開して儲からないというのは、気違いじみている)。これは80歳の人にも当てはまる合理的選択だ。
最大の問題は「公的領域のジャーナリズム」に対する、若い読者の支えが著しく細っていることにある。そもそも、公的事象に関心がないなら、広告モデルだろうが、有料化しようが、マルチメディア化しようが、ソーシャルメディア化しようがメディアを支える読者にはならない。
22日のNHKの討論番組「激震 マスメディア」で、ドワンゴの川上量生会長が「約200万人が別の国に住んでいるのだ」と言ったことは、テーマを最も的確に指摘していたと思う。(最も驚いたのは、外務省会見の中継で「彼は衆議院と参議院の区別もつかないのに、”行かされ”ているんですよ」という関西弁だった)
この200万人はどのような人々か。
ここからは想像。
パットナムの本の帯に引用されているのは、大リーグ版野村監督、
ヨギ・ベラの言葉(Yogiism)の一つで、「誰かの葬式に行かないのなら、自分の葬式に誰も来てくれないだろう」というものだ。大抵の葬式はこの世のしがらみだ。このしがらみがない人々の典型は、慶応SFCの教授だった関口一郎が指摘しているように、帰国子女である。彼らには共同体がないから、例えば、新聞の訃報には終世関心がないだろう(大学の先生くらいは思い出すだろうが)。
間違いなくネットが心地いい人々で、テクノロジーに多分詳しい。その詳しさは、そのように詳しくさせる内的必要があったためかもしれないし(専門的でなければ心を支えられない)、通念通り、ネット中毒の結果かもしれない。専門性に対する執着は強いから、専門的になることを極力自制してきたマスメディアの論理は全く分からない。
この200万人にとって、新聞もテレビも「興味の持てない情報」にすぎない。「無編集で流せばよい」「オンデマンドで流してほしい」という要望に続く言葉は、「まあ、俺は興味ないけどね」だろう。家庭とか、育児とか、近所付き合いとかのイメージが全く結びつかない。そういう人々はマスメディアにとって「別の国」に住む人々だ。
参考データ:日本の世代別新聞広告接触率(アメリカに比べれば全然レベルが違う)
【世代効果1】赤い羽根共同募金の将来
【世代効果2】肺がんの罹患率
書評
「孤独なボーリング」
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